18.09.01 2018年9月号 月刊『YO-RO-ZU よろず』 「おいしい」の周辺⑨
第九回

[ セミはいつが幸せだったのか!? ]

僕は、「これはすごいぞ!」とビックリするものを見つけると、何とかしてそのポテンシャルを最大限に発揮させてあげたいと思う。


しかし、自然界と付き合うということは、そこの面倒や手間隙を避けて通ることはできない。「このカカオはおいしいチョコレートになる!」、そう確信していても、気候に左右されて、常に同じクオリティのものを確保できないことがある。その場合は、ほかの材料や熱の加え方などをコントロールしていくしかない。だから、同じものを同じ手順でやっていく能力以上に、いざというときに対応できる力が問われてくる。自然界によって成長させてもらっていると言えるだろう。その意味では、自然を相手にするということは、人との関わり方や個性の見出し方と似ているかもしれない。
メーカーからブレンドされた材料を買ってきてチョコレートをつくるとしたら、手間隙も必要ない代わりに、工夫する力も、新しい気付きや発見や感動も、得ることができない。僕が初めての香りと出逢ったときの「うわ! ええ香りや!」という衝撃は、子どもが森の中で「うわ! 珍しいカブトムシや! 図鑑で見たのと同じや!」と興奮している姿と少しも変わらない。感動は、自分で探し当てたり、自分で工夫してみた経験の賜物だ。
もし、この感覚を持たない僕がチョコレートをつくったとしたら、そのチョコレートはお客様に何を届けるものになるだろう? そう考えると、プロに必要なものは単なるチョコレートを上手につくる技術だけではないと分かる。

僕が嬉しいのは、世の中にはまだまだ自分の知らないことがたくさんあるということだ。だから、これからどんなものに出逢っていけるのかが楽しみになる。特に自然界は、その宝庫だ。
 香りもそうだが、自然界は「儚(はかな)さ」と共にある。常に変化しているのだから、同じ状態が続かない。だからこそ儚さを大事にしたいと思う気持ちも湧いてくる。
 しかし、一方で思う。「儚い」ととらえてしまうのは人間の勝手な見方かもしれない。そのことを象徴するのがセミの一生だ。

あるとき、スタッフとこんな話をした。
「セミの一生の中で、セミ自身はいつが幸せだったと思う?」
 羽が伸びて、ミンミンと鳴き、交尾をして子孫を残す数週間が幸せだったと考える人もいるだろう。いやいや、木に産み付けられた卵から孵化した後、木を伝って土の中へ移動し、そこで何年か地中生活をするときが幸せだったと思う人もいる。
結論から言えば、セミの幸せは僕たちには分からない。それなのに、僕たちは自分の価値観で決めつけて、「セミの一生は儚い」という一言で終わらせてしまっているかもしれない。見逃したりキャッチできていなかったりすることがたくさんあるのではないか、と顧みることで自分の可能性を広げていくほうがいい。
「生み出す」ということは、自分の思い込みを捨てて、一つひとつ丁寧に自分で敏感に感じ取っていくことから始まる。ある時期だけ嗅ぐことのできる植物の魅力的な香りも、偶然の人との出会いも、自分の受け止め方次第で活かしたり活かせなかったりする。  自分はどうしなければいけないのかということを、自然界から教えられている。


僕自身が常に新しいものを生み出し続けることができたのは、ひと言で言えば、フランスで修業をしなかったからだ。“純日本パティシエ〟としては、教えられたことを伝えるとか、一つの味を守り続けるといった路線に最初から乗っていなかった。「フランスで学んだエスプリを伝えるために日本に戻ってきたのだ!」という気負いがない分、自分の五感や経験を信じて活用できる。スタッフにも固定したレシピを教えようなどとは思わない理由も、そこにある。


外国で勉強して帰国した先人たちがいてくれたから、今の日本の洋菓子界が存在することも事実だ。だけど、誤解を恐れずに言えば、もはや世界は日本人のパティシエたちに熱い視線を送るようになっている。
 西洋のように熱風で乾かしながら焼くケーキのつくり方がある一方で、日本では上下からの火を調整しながら焼く南蛮窯を用いて、ふんわり、しっとりとした食感を大事にする。その道具や技術の違いが西洋にはないものを生み出しているのだが、もっと大きな要因は、つくる人の意識だ。
「自分の味はこれだ!」という思い込みや「これを守り続けるんだ!」という保守的な考えが、新しいものへのチャレンジを邪魔する。僕が二〇一一年以降、毎年、フランスのチョコレートのコンクールに出品してきたのは、安易に自分自身を肯定したくないからであり、逆に言えば、それだけ自分に期待をしているからでもある。
そうしてどこにもないチョコレートやお菓子をつくりながら実感してきたことを社会に伝えていくことも、同じように大事な僕の役割だと思っている。初めて手にした材料のポテンシャルを引き出したいと考える僕だから、教師や親たちとは違う伝え方が生徒や子どもたちに対してもできるはずだと考える。
子どもたちはそれぞれに可能性を秘めている。最初は、「なんでお菓子屋のおっちゃんの話を聞かなあかんねん」という態度で聞いていた生徒たちが、少しずつ興味を持って耳を傾け、話が終わると向こうからやってきていろんなことを尋ねるようになる。彼らの可能性はそういうときに開かれていく。だから、教育の世界にもいろいろな人が関わっていくのがいい。教師ではないから言えることだってあるはずだ。
子どもたちが興味を持って話を聞いてくれることも、お菓子でお客様を「えっ!」と驚かせることも、僕の中ではどちらも「生み出す」ことの世界にちゃんと収まっている。その意味で、お菓子づくりと人を育てることは似ているし、僕の仕事の中でも二つは表裏の関係だと思っている。
 だからこそ、と自分に言い聞かせていることがある。僕も含めて大人は、自分という完成形を肯定したがるし、その肯定感のまま、子どもたちや後輩に接しようとする。そうすると、未完成であることを否定的に見てしまう。そうではなくて、自分自身も未完成で、だから常に自分を顧みることを止めてはいけない。共に未完成である者として関わっていくほうがいい。
「これ、おもろくないですか?」「おもろいなあ!」、「これ、めっちゃええと思わん?」「ええですね!」そういう関係の中で、気づいたり驚いたりということを喜び合うほうが楽しい。
 知識や技術をたくさん身に付けることが自己肯定感や自信につながるのではなく、反省と修正の連続によってしか自分は肯定できないし、自信もそこからしか生まれない。そのことを大人や先輩が自覚できたら、若い人たちの可能性はきっと活かされていくだろうと信じている。


セミの幸せを僕らは決めつけてはいないだろうか?素晴らしい香りを放っている植物を見逃していないだろうか? 自分の目の前にいる人の可能性の芽を摘み取っていないだろうか?


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