20.11.13 (1/4ページ)
Vol.14

NEXT ACTION!~パティシエは木を植える~

2つの「そうぞう力」を発揮できる場所、三田

2020年の11月13日でエスコヤマは開業から丸17年になる。 スタートした頃は、お店の周りに住宅はほとんどなかった。


当時をご存じの方は、今との違いに驚かれる方も多い。 「閑静な住宅街のなかにある……」とテレビや雑誌で紹介されるようになったのは、10年前くらいからだろうか。 だから、ここ数年でエスコヤマのことを知ってくださり、実際に足を運んでくださった方の多くは勘違いをされているかもしれない。 僕が今の場所にお店を建てたのは、住宅街のど真ん中で地元のお客様がたくさん来られるからではない。


いつもと同じ話になるが、小学生の頃、毎年夏休みになると、僕は兵庫県多可町加美(旧:加美町)にある母方の実家に預けられ、そこで約1か月を過ごした。 毎朝おじいちゃんがくれる産みたてのまだ温かい卵でつくる卵かけご飯を食べ、遊びに行くと言えば、山か川。 山へ行って林に分け入り大好きなクワガタムシやカブトムシを採り、川へ行っては魚採り。 そんなことを毎日繰り返して、夏休みが終わると京都の都会へ戻っていく……。自然から得たたくさんのインプットを都会へ戻ってアウトプットするというサイクルは、僕の想像力と創造力に多大な影響を与えた。


そして、自然豊かな三田という土地には、山があり川がある。 緑が身近に感じられ、自然が織り成す音があり、季節になれば虫たちの声が響き渡る。 晴れの日には清々しい青空が広がる。 虫採りができる場所もあり、何気なく過ごしていても少し意識を向ければ日常からたくさんのインプットがある。 大人になっても原体験をそのまま再現できるのではないか、そう思わせてくれる空気感がある。


これからずっとクリエイティブな仕事をしていかなければいけない自分にとって、子ども心のまま自然体でいられることが重要だと感じていた僕は、理想の場所を見つけたと直感した。 お菓子づくりだけでなく、お庭や店全体の雰囲気を創り上げる“店づくり”に対しても自然からのインプットを思う存分発揮ができる理想の場所なのだ。

コロナ禍のなかで再認識した
“当たり前”の尊さと感謝

2020年の初め、2月のバレンタインの時期から少しずつ世間がザワつきはじめ、それから1カ月後のちょうどホワイトデーが終わった頃、日常が一変した。 4月7日には日本政府から「緊急事態宣言」が発令され、エスコヤマも4月13日から18日間休業した。 5月1日からは店は閉めたまま、事前ご予約商品の駐車場でのお渡しと、三田市内と神戸市北区の一部地域のお客様にのみ直接スタッフがケーキをお届けするという配達サービスを行った。 実は、オープンした時からエスコヤマにご来店下さる方の多くは、県外からが大半だった。 そのため、三田市内のお客様へきちんとしたご挨拶ができていなかったのがずっと心残りだったが、このコロナ禍のなかで「自分たちにできる最大限のサービス」を考えた時、出てきた答えが「地元の方に特化した配達サービス」だった、という偶然によって、地元住民の方々に改めてご挨拶をすることができたのは幸いだった。 普段通りに営業をしながらであれば絶対にできなかったことだ。



「全国で学校が休校し、給食に出される予定だった牛乳や野菜などの食材が余って生産者の方々が困っている」というニュースが流れていたことをご存じの方は多いと思う。 学校だけでなく、我々のような飲食業が止まってしまったことで、食材の行き場がなくなってしまったのである。 だから、卵も牛乳もどんな材料も人の苦労や人の涙がそこにあって、そういう循環の中で1つの役割を担っているのが僕たちの仕事だということを、良い意味で、改めて感じることができた。


生産者さんが届けてくださる材料を使って美味しいお菓子を作り、お客様に笑顔を届けるのはもちろんだが、僕たちがモノづくりを続けることが生産者さんの笑顔をつくっていたのだ。 考えれば自然なことだが、こんな状況にでもならない限り、身をもって経験することはなかっただろう。 インスタグラムでレシピ投稿を続けられた理由もその実感があったからだ。


キッカケは、店を閉めている間に「牛乳がたくさん余ってしまって酪農家さんたちが困っているので牛乳をつかったお菓子のレシピを教えてほしい」というお声をいただいたことだった。 5月は毎日1レシピ、牛乳や卵などをはじめ、ご家庭にある身近な材料でできるお菓子のレシピを配信し続けた。 6月に入り、営業を再開してからは少し頻度を落としているが、10月11日の時点で60レシピに達した。 投稿のたびにたくさんの方がコメントをくださり、地道な投稿ではあったが、お菓子のレシピにはこれほどまで世の中を幸せにする力があるのだと実感することができた。 新型コロナウイルスは、皮肉にも改めて当たり前の日常の尊さを考えるキッカケを与えてくれたのだ。


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