23.05.14 (1/4ページ)
Vol.21

比べる楽しさ

知らないことは新しい

僕がお菓子づくりを始めて早40年ほど。世の中の動きを振り返ると、お菓子業界だけでなくどの分野においても発達が著しく、クオリティの標準(=俗に言う“普通”と感じるレベル)もどんどん上がってきている。また、クオリティを上げるために必要な情報も、美味しい素材も、高度な技術を備えた器具も流通し、本当に何でも手に入る時代になったなと改めて感じる。ここまで環境が整っているのだから必然的に全国各地で美味しいお菓子が莫大に増え、同時に皆さんが美味しいと感じる基準も上がっているため、お客さまの心にしっかりと届けられるよう僕たちもより一層丁寧に、より一層慎重にお菓子を開発している。


しかし、そんな風にいろんなことが出尽くしてしまっているような時代でも“新しい”という言葉は日常的によく飛び交っている。それに対し僕は以前から「“新しい”って本当に新しいのか?」とずっと疑問を抱いていた。というのは、新しい=成り立ってからまだ時が経っていない=この世に誕生したひとつめ、などを意味するのだが、自分にとって初めて出逢ったことをそう感じがちなだけで、実のところそれが本当に新しいかどうかは分からない。つまり、人々は“知らないこと”に新しさを感じる習性があるということだ。例えば今まで味わったことのない素材と出会ったとしても、ペルーやメキシコに行くと五味五感の似たようなものが昔からあったりするように。


もし海外の人が日本に来れば、僕たちにとっては古典的なことにも新しさを感じるだろう。逆に日本人が南米に行くと、現地の人たちにとっては日常的なものに新しさを感じる。そしてインスピレーションを受けて自身の感覚に落とし込み、ひとつお菓子としてアウトプットするのだ。


できることならば、世界中にあふれる“まだ知らないこと”を知りたいとは思うが、当然一気に世界中のすべてのことを知れるわけではない。たとえ対象を限ったとしても、その国、その家庭の文化や生活様式から生まれた感性が違うので、創り手によって特徴が違い、レシピも無限のように存在している。 だからこそ、今一度古典に還ることにした。僕にとってのお菓子づくりの古典は、子どものころ町内に漂っていた美味しそうな香りや、パティシエだった父親が作ってくれたお菓子の味わい、パティシエを目指し始めたときの意志などのこと。その頃の感覚に“現代の感覚”を加えられる、それが「今」の創作のような気がするのだ。

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