現在、エスコヤマのお庭を担当して下さっている庭師M(松下裕崇さま)のアシスタントスタッフを募集しております!ご興味のある方は下記の連絡先までお問い合わせくださいませ。
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久しぶりに、この日記を更新します。長らく沈黙を決め込んでおり、心よりお詫び申し上げます。さて、前回の庭師日記からこの沈黙の一年、何があったのか? 沈黙してたということは、まさかのネタ切れ!ではありません。
むしろ、その逆で、庭師日記にしなければならないことが有りすぎて大変な一年でした。恐らく、私がエスコヤマ始まって以来、これほどまでにエスコヤマにとどまって仕事をしたことはないというほど、この一年間は沢山の時間をエスコヤマで過ごしました。その理由は、ご存知の方も少なからずいらっしゃるとは思いますが、そうです、今年2月にオープンしたショコラのお店「Rozilla」の建設です。これは計画段階から考えるとまる1年以上を要したプロジェクトでした。ここでのエピソードは枚挙に暇がありません。また、おいおい、この場をお借りして、発表してゆきたい次第ですが、実はこのプロジェクトにまつわる経験はどうにも言葉にしにくいのです。私の人生にとって初めての経験が短期間の間に連続してやってきたからかもしれません。そこには沢山の人が関わり、沢山の人達の感性というかエネルギーが高めあって、一つになっていった不思議な体験でした。コヤマシェフだから成し得たプロジェクトだとはおもうのですが、それがうまく言葉では表現できないでいます。しかし、その反面、どうしても書いておきたいプロジェクトでもあるので、少しづつ書いてみるつもりです。
今回の日記はクエスト オブ カカオ シリーズⅡ(カカオ農園を旅する第二弾)です。前回マダガスカルのカカオ農園を訪れた旅の第二弾です。
今年の目的地はベトナム。
ベトナム?
ベトナムと聞いてあまりピンと来ない方もいらっしゃるとは思いますが、日本から一番近いカカオの産地です。その歴史は意外にも古く、フランス帝国がベトナムを植民地にしていた時代にフランス人によって持ち込まれたそうです。
「今年はベトナムに行くと決めた」とコヤマシェフから告げられたとき、私自身もイマイチベトナムとカカオがつながらなかったのですが、まあ、コヤマシェフの感覚センサーがベトナムに反応しているのなら、何か面白いモノがあるのは間違いないはず。
さて、今年もメンバーは変わらず、コヤマシェフと写真家の石丸さん、そして、庭師の私、松下でございます。
ベトナムにはコヤマシェフは何度か訪れたことがあるそうで、 「食事はめっちゃ美味しいからな。楽しみにしとけよ〜」と、言っているコヤマシェフが一番楽しみにしてそうでした。 余談ではあるが、小山シェフと一緒にいると素晴らしく美味しいモノを食べる機会に恵まれる。韓国に行った時もそうだったし、東京出張の時もです。私では決して知ることのできないお店や入ることに躊躇してしまうお店に金魚の糞として度々入ってまいりました。身分不相応に美味しいモノを食べていることは重々承知しておりますので、ご勘弁を。
ベトナムは日本から飛行機で5時間。まあ、昨年のマダガスカルに比べると、楽勝の距離です。昨年と同様、石丸さんと関空で落ち合い、出発です。 今回のベトナムはちょっとした観光気分は否めません。そのせいか、旅行気分満点になった私はついうっかり、eチケットを無くしてしまった。しかもそれをベトナムの空港で入国審査を通過する時に気がついたのです。
「eチケットを見せてください」と通関の職員に求められたのですが、どこを探しても見当たりません。 「ごめんなさい、ちょっと見当たらない。もしかしたら、無くしたかもしれません。」と言うと、 「それではここを通す訳には行きません。」と言われてびっくり。 いやいやそれでは困ります。必死で探すが、全くどこにしまい込んだのか記憶にございません。必死になって探していると、
「仕事で来られたのですか?もしそうであれば、このまま入国しない訳には行かないだろうから、私が助けてあげますので、幾ばくかのお金をおいてゆきなさい。」とのことだった。 一瞬何を言われたか理解できませんでした。 「お金?」しかし、よくよく考えてみると、彼はこちらの失敗につけ込み、袖の下つまり賄賂を求めているのです。 同情しているふりをして、賄賂を要求するとは腹が立ちますが、ここで揉めるとややこしいので、 「申し訳ない。今現金を持ち合わせていないから、カードで払わせてくれ。」と返事してみました。もちろん、賄賂はカード決済できるはずも無いのをわかっていての話です。 すると、相手はびっくりして 「いや、ドン(ベトナムの通貨)で無くてもかまわない。日本円でも我々はかまわない。」威厳ありげに言うのですが、その言い方が少し滑稽に見えてきて笑いそうになりましたが、 「申し訳ない、日本円は日本においてきました。VISAカードならあります。」とJAのガソリンカードを見せてみました。 「カードはだめだ。少しでも私はかまわない。」と周りを気にしながら小さな声で言われたが、そんなやり取りを数回しているうちに、相手はあきらめて 「もう、わかった。行け」とあごで払いのけるように首を振りました。
元はと言えばeチケットを無くした私が悪い。が、しかし、そこにつけ込む神経が腹立たしい。 まあ、こんなことで、ベトナム旅行を台無しにせずによかった、と思い直し、空港で待っているガイドさんと合流後、ホテルに向かいました。 その日は、ホテルにチェックインして、翌日カカオ農園に行く予定です。
チェックインした頃には既に、夕方。もうそろそろ、夕食の時間。今回は小山シェフがおいしいとお墨付きのレストランで食事です。すごい楽しみにしていましたが、その期待通り、本当に美味しかったです。どの料理も日本で口にしたことのないようなモノばかりで、意外と野菜たっぷりで、体に優しい。お腹いっぱいになったあとは、町の一番おしゃれな感じの通りに面したビルの最上階にあるBarのオープンテラスで今回の第2回カカオツアーに対して祝杯を上げました。そこから見える景色は都会そのもの古いフランス式の建物はフランス統治時代にたてられた古い建物で、その間をニョキニョキと最近出来たような高層ビルが立っています。路面店には日本でもおなじみのブランドショップが入っているのでしょう、あちこちにネオンに照らし出された見慣れた看板や広告が目に入ります。夜遅くまで交通量が多く、とても活気がある町で、景気の良さが感じられる都市でした。
さて、明日はカカオ農園ですが、目の前の景色を見る限り、カカオツアーに来た実感がわいてきませんが、次の日に備えて、この日は早めに切り上げました。
さて、次の日は、朝からフランス人の夫婦とホテルのロビーで待ち合わせです。今回のカカオ農園の案内をしてくれるためにわざわざフランスから来てくれました。フランス人といっても、旦那様のアンドレさんはフランス人ですが、奥様のハンさんはもともとベトナム人です。14歳の頃にフランスに移住したそうです。ベトナムで生産されているカカオをフランスへと輸入し、クーベルチュールチョコレートの製造を行っています。小山シェフは昨年2012年のフランスのサロン・デュ・ショコラで彼らの作るベトカカオのチョコレートを食べて、その美味しさに興味を持ったそうです。自分好みの酸味があり、そこからこのベトナム訪問に至ったというわけです。
ホテルのロビーで挨拶をし、早速、用意してくれていた車に乗り込みます。カカオ農園まで車で約3時間。その前にカカオの発酵工場を見学するそうですが、その建物は元学校だと説明されました。
ホーチミンから少し離れると急に発展途上国の姿を露にします。小さな小屋のようなものが団子のように立ち並び、たくさんの人たちがバイクで行き交う姿は途上国独特の雰囲気を醸し出していました。この国は川が多く、水路はものを運搬するための大事な手段だそうで、サイゴン川もメコン川も今でも多くの船が荷物を乗せてゆっくりと往来していました。また、この国の人たちはハンモックが大好き。道路沿いのカフェであろうが、船の上であろうが、トラックの荷台であろうが、ハンモックをかけれるところにはとりあえずハンモックをかけていました。
3時間というのは、あっと言う間、というか、マダガスカルのことを思えば車に乗っているだけでカカオ農園に到着するなんて、なんだかこんなに楽をしてもいいのか?という申し訳ない気分になります。もう少し、道程が困難である方が僕の日記的には助かるのですが・・・ とはいえ、まあ、近いのはありがたい。気がつけば、カカオの発酵工場に到着しました。
「さあ、ご苦労さまでした。学校に到着です。今は夏休みで生徒はいませんが。」 確かに、説明されていた通り元学校とわかるような建物です。
校長室のような部屋に通されて、そこの関係者を紹介されましたが、そこにいるのは基本的には先生です。 「生徒達は基本的にここで刺繍の勉強をしたり、カカオの分別をしたりします。」 そうやって先生の一人が説明してくれました。そこでようやくこの施設を理解しました。ここは職業訓練校だったのです。 「では、早速カカオ発酵行程を見に行きましょうか?」と校長先生のような方に案内され、カカオの発酵行程を見ることにしました。案内された先には懐かしのカカオポットが山積みにしてあります。早速小山シェフがカカオに駆け寄り、手に取ってカカオの香りをかいで、生のカカオを味見しています。
その後ろで、 「一年前、マダガスカルのカカオ農園で見た景色を思い出しますね。」と言いながら写真家の石丸のカメラのシャッターを切っています。その姿を後ろから見ながら、乾燥台に乗った発酵後のカカオの中からよくないものだけを分別している作業をしている少年に目が止まりました。
「あ、彼もしかして」 一目で分りましたが、恐らくその少年は障害を持っています。なるほど、やっと合点がいきました。 案内してくれたフランス人のハンさんは、 「ここは、障害を持った子供達が働いています。その障害を持った子供達はあなた達もご存知の通り、ベトナム戦争でまき散らされた枯れ葉剤のせいで生まれてきた子供達です。」 急にこの国の陰の重たい部分を見てしまった気がしました。ベトナム戦争が凄惨を極めたものだということはいろんな本や映画では知っていましたが、それは30年以上前の出来事。しかし、今もその影響で苦しんでいる子供達がこの国には沢山いるのという現実は、言葉では言い表せないものが胸の奥に突き刺さってきます。この国はまだ戦争が終わっていないのです。 複雑な思いで働く少年を見ていると、 小山シェフが 「このことは繊細な話だからフェイスブックには載せないでくれ。ちゃんと誤解がないように今回のベトナムの件はみんなに報告しよう。ここにいる皆さんからしっかり話しを聞いておいてくれ。」と真剣な面持ちで耳打ちされました。
確かに、小山シェフから言われた通り、この話はとても繊細だし、複雑です。予備知識があまりない状態で根掘り葉掘り質問をするのも失礼な気がしましたので、少し一般的な質問をしつつ、少しずつつっこんだ話をしてみましたが、すこしでもややこしい話になるとだれも語りたがりません。通訳のブーさんから告げられたのは、 「この国では政治に関する話はタブーです。ここは共産党の国です。あなたの質問にはっきり答えてくれる人はいないと思います。」と教えてくれました。
私の投げかけた質問は職業訓練の為に働いている彼らの生活環境やこれからの先のこと。たとえば、仕事をするとお金をもらえるのか、とか、国から保証をされていると思うが、それで本当に生活できるのか、といったことですが、答えは「お金はもらえる。生活も出来る」と言ったっきりそれ以上説明はしてくれませんでした。それ以上の質問は露骨に嫌な顔をされました。それは彼らにとってその質問は政治的すぎるのかもしれません。 しかし、それは決してここで働く子供達が不適切な環境や条件で強いているということを意味しているのではありません。むしろ、ここに来て仕事を出来る障害を持った子供達は恵まれている方だと思います。ベトちゃんドクちゃんでもわかる通り、重度の障害を持っている子になれば一人で生きていくことすらままなりません。 アメリカ政府は自国のベトナム戦争の退役軍人に対する枯れ葉剤での薬害は認めていても、ベトナムにおける枯れ葉剤と障害をもって生まれてくる子供達との因果関係は認めていません。しかし、未だに土壌は汚染されたままの場所があり、知らず知らずのうちに被害は拡大しているとも言われています。近年ようやくアメリカ政府の協力で汚染された土壌の撤去作業が始まったそうです。今シリアの化学兵器を弾劾しているアメリカ政府はシリア介入の前に、ここベトナムを綺麗し元通りの土壌に戻してもらいたい。これ以上書くと、政治コラムになってしまいますので、このへんでやめておきますが、枯れ葉剤の被害は2世代3世代に渡っています。
話はもどって、そこでいろんなカカオの発酵のこと、どの様に乾燥させるか、などを説明していただきましたが、枯れ葉剤の話のショックで、どうにも内容が頭に入ってきません。規模でいうと、決して大きくはありませんでしたが、小山シェフは 「ここはカカオにロスが多いなあ。マダガスカルではこんなにロスはでていなかった。恐らく、産地としてはまだ若いせいなのかな。」と発酵させた後のカカオの選別作業を見ながら一人ごとのように、つぶやいていましたが、元々、フランス領なので、カカオは昔からあるのですが、枯れ葉剤によってカカオは壊滅したそうです。産地として若いのは戦争によって空白があるからだということが、後から知らされました。
「それでは農園の方に移動しましょうか。」とハンさんに案内されて車に乗り込み、15分程行くとカカオ農園に到着。
「さて、到着しました。」と車を降りると、カカオの農園です。昨年マダガスカルで見たカカオより少し樹齢の若い木がならんでいます。木の幹には沢山のカカオがくっつくように実が成っています。 「いつ見ても不思議な実のなり方をする植物だなあ」と眺めていると、枝にくっついているペットボトルに目が止まりました。ペットボトルの中身は木の皮の様なものが丸めて入っています。 「これはなんですか?」 と尋ねると、 「虫よけだ。この中には蟻が巣を作れるような仕組みになっていて、蟻がカカオにつく虫を退治してくれるんだよ。オーガニックなやり方です。」と教えてくれました。
確かに、カカオの表面には虫に噛まれたあとがあるのですが、その虫は夜行性でカカオに穴をあけてしまうようで、その虫からカカオを守るためにボデイガードのために蟻を飼っているそうです。 到着するやいなや、撮影を開始していた小山シェフと石丸さんも、ある程度撮影を終えた時、 「お昼にしませんか?」とガイドのブーさんが声をかけてくれました。
今日のお昼はカカオ農園のオーナーの奥さんの手作りでした。食事は農園の中にあるテラスというか東屋に準備してくださっていましたが、テーブルに所狭しと並べられた料理の数々、量もさることながら、その見た目、香りもどれをとっても申し分ございません。カカオ農園で食べる雰囲気満点の家庭料理でした。特に、お母さんの手作りカレーは小山シェフも絶賛していました。みなさん、写真だけで申し訳ないです。
美味しい食事の後は、農園の近くの森を散策。この国の方は信仰心が強いらしく、農園の中にも小さな寺院がありました。森に点々と椰子葺きの小さな家が並びます。 「とても面白い建物ですね。あれは伝統的な建築様式ですか?」とガイドのブーさんに言うと、 「昔の農家です。いやあ、貧しいだけですよ。」と返ってきました。最近建てた家はコンクリート製のものがほとんどでした。 貧しい国に行くと、昔からあるモノややり方を否定しがちな気がします。それがいかに優れたものであっても。それは恐らく進歩や発展のイメージとはかけなれた、時代遅れのモノのように思えるからなのでしょう。進歩とは往々にしてイメージを優先してしまいます。日本も同じ道をたどって今に至ります。しかし、 「進歩や発展ばかりを求めてすぎて、その過程で失ってきたものが最近、とても気になる。」と小山シェフはよく言います。 「こういった発展途上の国を訪問すると、日本は何を失ってしまったのか、ということが何となくわかるから、年に一度はこのような国を訪れたくなるんやなぁ。」とも。
話は戻って、散策の後は、今日止まるホテルに移動して、戻って先ほど見たカカオから作られたチョコレートの試食会です。 ご夫婦がフランスからわざわざ運んできてくれたものですが、 「カカオ農園を見た後にこれを食べることが出来るのは、説得力があるよな」と小山シェフは興味深そうに机の上に並べられたいろいろなチョコレートを眺めています。 「ん、このミルクチョコレート面白い。酸味がいい感じや。マダガスカルのカカオも独特の酸味があるんだけど、それとはまた違う酸味や。」と頷きながら何かを考えてる様子。
「この(ミルクチョコレートに入っている)ミルクはどこのものですか?」 とシェフがハンさんに質問すると、 「スイスのミルクです。」とハンさんが答えるやいなや、 「このミルクの酸味もこの独特の酸味の一因かもしれん。」とさっきから目は遠くを見たままです。この目をするコヤマシェフは大体このミルクチョコレートに合うものを探すため頭が高速回転中なのです。ちなみに、小山シェフはその食べ物を想像しただけで、味が舌に戻って来るそうです。だから、このミルクチョコレートを食べた時に頭の中に合いそうな素材を想像することで、ミルクチョコレートとの組み合わせがイメージ出来てしまうのです。恐るべしコヤマススム味コンピューター。しかも、シェフは味を記憶することができて、その味データは常にアップデートされているところが更に恐ろしい。 「これ、食べてみて。」と言ってシェフから先ほどのミルクチョコレートを渡されたので何が合うか考えてみて、それっぽいことを発言しようと思いましたが、 「あ、これおいしい。」ということに気をとられている間に溶けてなくなってしまいました。残念ですが、私はショコラティエには向いていませんね。
ミルクチョコレート以外にもいろんなチョコレートを頂きました。そしていろんな意見の交換をすることができました。カカオ農園の現地で見てきたもの、そこで感じたものを表現することを大事にしている小山シェフにとって、このテイスティングはとても大事です。わざわざフランスから沢山のチョコを我々のために持ってきて下さって本当にありがとうございました。反面、ハンさんたちもとても勉強になった様子。なにせ、コヤマシェフが求めるものは今後世界のチョコレート市場全体で求められる可能性のあるものばかり。ハンさんの様に素材を作る方々が今後どういうものを作ればよいのか、という指針をコヤマシェフから得たんだと思います。それに、コヤマシェフがここのチョコを使えば、品質や味を保証されたようなもの。世界のショコラティエに売り込むことが出来るかもしれません。とても良い関係だと思いました。こうした関係をコヤマシェフは世界各地で築き上げています。
この出会いからコヤマシェフが何を生み出すか、それは乞うご期待。
さて、今回の旅行のメインイベントを終え、とりあえず、一安心。 「今日はありがとうございました。今晩はせっかくですし、お食事に招待したいのですが、いかがですか?」とご夫婦から招待されました。 それは、もちろん、うれしいお誘いです。夕食まで時間があったので、その間に今日一日であったことを小山シェフと石丸さんと少し話しをしましたが、みな一様に慎重な面持ちでした。それは、一人間として、一人の親として、今日見たことはベトナムのとても厳しい現実として受け止めたからだと思います。 「今日の写真は商売として使いたくないんだけど、ただ、この現実は多くの方に知っていただきたい。きちんとした発表の場を考えよう。」と小山シェフは言葉少なにお話をされていましたが、今回の旅行中、食べ物中心のFacebookの内容になったのはこういう内容をFacebookで安易に流すのは不適切だと考えたからでした。
さて、今晩の食事は大きな池のほとりにあるレストラン。というかレストランの中に大きな池があって、その池の中の魚を使った料理を出してくれるレストランです。ベトナムにはこの手のレストランはそんなに珍しくないそうです。ちなみにこのレストランの池の中の水は濁っています。池の魚を食べ慣れていない日本人にとっては「この池の魚は大丈夫か?」と思わず不安になると思いますが、この国はメコン川もサイゴン川も大概濁っています。ホーチミン付近の川の水の透明度はほとんどありません。しかし、この水は汚い水が垂れ流しになって汚れているわけではなく、(いや、そうであってもだれも気が付かないともいますが・・・)川の水が赤茶色の川岸の土を浸食しながら流れていて、そのせいで水が赤茶色く濁っているそうだ。ちなみに、ここは沢山の生物が住んでおり、ベトナム人の食生活を支えているといっても過言ではない大事な川だそうです。
池のほとりの東屋で、美味しいベトナム料理とお酒をいただいていると、もちろん会話も弾みます。奥様のハンさんはベトナム語とフランス語と英語が堪能で会話の時は英語とフランス語のミックス。美味しい食事とお酒で苦手な外国語でもなぜかうまく会話が出来るのだから美味しいものって不思議ですね。 ちゃんと自己紹介もしていなかったので、食事をしながらの自己紹介。まあ、小山シェフはする必要がないんですけど、「彼は写真家、でエスコヤマの写真を一手に引き受けてくれています。」とコヤマシェフが石丸さんを紹介しますが、そこは常にカメラを持っているし、そのことは簡単に理解ができます。次は私の番。 「彼は庭師です。うちのお店のお庭を作ってくれています。」と小山シェフに紹介されるとほとんどの人が、全く予想しなかった球が飛んできたかのような顔をして、 「庭師・・・ですか?」となります。恐らく、逆の立場なら?マークが付くと思います。しかも、庭師は日本でこそ、市民権を得た仕事ですが、他の国に行くと、庭師の地位はとても低い。ほとんど最下層の部類といっても過言ではないくらい。だから、?マークが3つか4つぐらい出るのが当然かもしれません。 「なぜ、小山シェフは庭師をつれてきたのか?」 「この庭師はなんの為にここにいるのか?たまたま観光に来る予定になっていたから、じゃあ一緒に行くか、ぐらいのノリで来たのか?」 とにかく良く分からないが、なぜ、あなたはここにいるのですか?というのは質問はさすが失礼すぎる。しかし、彼女は 「あなたは庭師兼秘書ね。庭師というのはずるいわ。」とこっそり僕に笑顔で言いました。意外な答えに少し私は驚きました。このハンさんの一言には正直驚きましたが、同時にこの人は沢山の差別や蔑視と戦ってきた方なんだ、ということが直感的にわかりました。
こちらの紹介はほどほどにして、 と自然と彼女のバックグラウンドの話が移り、 「ハンさん、あなたはなぜ、フランスに渡ったのですか?」と投げかけた質問に対して彼女が語りはじめたことは想像を絶するお話でした。
「私はフランスに亡命したんです。まだ、私が小さい頃、私はサイゴンに住んでいました。」
「亡命ですか?」と
「そう、亡命です。我々一族はとても裕福でしたが、ベトナム戦争後、ベトナム政府の共産主義への傾斜が進み、1978年に共産党政府により個人資産没収、銀行預金の差し押さえ、私企業の国営化という通達が出され、我々は財産のすべてを政府に奪われてしまいました。社会か混乱し多く人間はこのままでは生きてゆくことすらままならない、と判断し沢山の住民が亡命することになりました。私の家族もその時亡命することを決めました。たまたま、その当時、親類がフランスに住んでいたこともあり、フランスにさえたどり着けばどうにかなると考えでした。」
淡々と話してくれたものの、その内容があまりにも壮絶すぎて、相槌すらうてずに、ただただ話に聞き入ってしまいました。
「しかし、その当時、簡単にはフランスに亡命などできませんよね。」と尋ねると、
「もちろん、その通り。フランスへの道のりは大変だったわ。飛行機でベトナムからは出国できませんでした。私はボートピープルだったのよ。」
その言葉に耳を疑いました。
ボートピープル。
恐らく若い方はボートピープルのことを知らない人の方が多いと思います。ボートピープルとは政治的な理由が主な原因でその国にいることが出来なくなり、船に乗って他の国に亡命した人達のことを言います。船と言っても木造の小舟。しかも、この船に乗るためには一人金の延べ棒が2つ必要なぐらい高価だったそうです。しかし、このボートピープルは悲劇的な運命をたどることが多く、沢山の船がこの時ベトナムから、台湾、中国、マレーシア、日本に出航しましたが、小さな小舟に何十人もの人間が缶詰状態で乗り込んで洋上を何日も漂流するのですが、もちろん船の運転は素人のため、嵐にあって船が沈んだり、座礁したりしたそうです。食料不足のために飢餓状態に陥ったり、途中、海賊の襲撃に合い、物資は略奪され、女性は強姦され、子供達は誘拐され、反抗すれば殺されりするといったことも頻繁に起きたそうで、さらにひどいのは、一隻のボートが数回海賊の襲撃にあったりもしたそうです。残念ながら、彼らは亡命している以上、ベトナム政府から守られることはありません。なにせパスポートを持っていません。まさに、命がけの亡命だったそうです。
「私たちも4度海賊にあったわ。その時に持って逃げた財産をすべて奪われたの。船に乗っていた最後の一週間は食料もなく、雨水だけが頼りに洋上をさまよったわ。もうだめだって思った、その時マレーシアの漁船を見つけたの。」
そこで死ぬことを覚悟して、船に乗っていた人たちは一斉に海に飛び込んでその船に向かって泳いだそうです。航海法上、溺れている人やSOSの旗をつけた船は海上にいる限り、見つけた船はかならず救出しなければなりません。しかし、現実には沢山の船がボートピープルの小舟を無視して去っていったそうです。その中には日本の船も少なくなかったとのことです。
「あの時漁船と出会わなければ、今私はここにいなかったわ。」
そして、その漁船によってマレーシアの海岸に着いて、そこからフランスにいる親戚に手紙を書いて、フランスに渡ったそうです。その当時150万人を超えるベトナム在住の華僑がボートピープルとして、亡命を果たしたそうです。しかし、ボートピープルのおよそ7割以上が一度以上海賊に襲われたそうです。また、この亡命の生存率は30%程度だったとも言われています。今回ここに記したボートピープルの話は劇的な話の演出の為のものではありません。むしろその逆でこの文章を書くにあたって沢山の本を読みましたが、事実はここで書くにはあまりに残酷なものでした。詳しく知りたい方は犬養道子さんの「人間の大地」を読んでみて下さい。
「私は幸運でした。生き延びる運命だったんだと思います。それが私のカルマなんです。」カルマつまり業。前世の善行によって、今の自分の幸運がある、ということ。彼女は、生き延びた者とそうでない者の違いを問い続けたのだと思います。そして、そこにある違いを現世の彼らの中に見つけることが出来なかったのかもしれません。アウシュビッツでも広島でも、そこから生き残った方々はなんらかの、運命と生かされた以上の義務を感じる人が多いといいます。
「だから、私はベトナムにいる障害を持つ子供達を助けたいのです。今日見ていただいた活動は偽善でやっているわけではありません。これは生き延びることが出来た運をくれたお返しのようなもの。よいカルマはよい人生を招く。今の善行が来世に繋がっていると私は信じています。」
彼女が語ることはとても壮大なお話でした。ベトナム戦争の話、枯れ葉剤のこと、ボートピープル。どれも、私にとって昔教科書や新聞で読んだ歴史の一部と思っていたことが、この目の前にいる女性の人生に刻まれているという事実に圧倒されました。そして、自分ではどうすることもできない大きな力によって人生を翻弄されてもなお、自分の人生を呪うのではなく、前向きに生きる姿、生き延びることが出来たことへの感謝へとつなげている彼女自身に素直に尊敬の念を抱きました。
「ベトナムには戻ってこられないのですか?」と尋ねると、
「この国に戻ってくるつもりはありません。この国は今は荒んでいます。何をするにも、賄賂、賄賂、賄賂。物事を滞り無く進めるためにはすべてお金で解決しなければなりません。今、自分がここに戻ってきても、自分の思うことはできません。」
と語っておられました。
食事を終えて、ホテルで少し飲み直そうと、
コヤマシェフと石丸さんでテラスにあるゆったりとした椅子に腰をかけました。
その夜はあんまり暑くなく、外で座っているのがなんとなく心地良く感じました。
「しかし、現地に来るといつも来ないとわからないことがありますよね。」と感慨深げに石丸さんが話は出しました。
「僕は別に全部の産地に行きたいと思っているわけではないんやな。僕が行きたい場所は美味しいカカオの産地なんやけど、自分が美味しいと思うものにはいつも何かストーリーというか裏があるんや。それは訪れてみないとわからない。エクアドルやマダガスカルもそうだったし。現地のカカオの木を見て、そこでカカオの実を食べて、生産者の方々と話をし、現地の実状を知ると、もっとそのカカオが使いたくなる。でも、それはそこにいる人たちに同情しているからではないと自分では思っている。むしろ、美味しいものはそれを作るための思いがあったり、そのための努力があるやろ。ほったらかしでは美味しいものはできないとおもう。だから、なんとなく、美味しいというのは平等だと思うんや。」とコヤマシェフが話をされていました。
それは小山シェフらしい平等観だと思いました。小山シェフは天賦の才の持ち主だと思われがちですが、小山シェフはむしろ努力と忍耐の人。陰にある努力、思いなしに美味しいものが存在しないことを知っているからこそ、それを生み出す見えない努力が小山シェフには見えるし、それ故、美味しいものを作る人への敬意は誰よりも強いのだと思います。そこには国や人種や職業など関係ありません。美味しいカカオに出会った時、直感的にその背景にある何かをコヤマシェフは感じるのだと思います。そして、それを現地に行って確認したいのだと思います。おいしいものを探す旅、それはコヤマシェフなりのフェアートレードなのかもしれませんね。
翌日、お別れの際、 「お話を聞けてよかったです。あなたの話、この活動のこと、私の日記で紹介してもいいですか?」と尋ねると、 「もちろんよ。」と、笑顔で快諾してくれました。 「次は、フランスであいましょう。」と言って別れました。
今回も想像を超えたカカオの旅でした。普通に旅するだけでは、決して見ることが出来ないベトナムの一面を見たとおもいます。この日記を書くにあたってベトナムのことを沢山調べましたが、とても不幸な国でした。しかし、豊かな国でもあるとも感じました。最後に紹介したいのは、このお話です。日本人ならほとんどの人が知っている物語だと思います。漁師が竜宮城にたどり着き、知らぬ間に時間が立ってしまい、帰って玉手箱をあけると、おじいさんになってしまったというやつです。そう、浦島太郎の物語。実はあの物語に出てくる竜宮城って実はベトナムだといわれてるそうです。竜宮城に出てくる門のような建物は中国文化に影響を受けたベトナム建築まさにそのもの。タイやヒラメが舞い、ひらひらとした衣装を着た天女の女性が美味しい食べ物やお酒を振る舞い、日本から来た漁師はあまりの居心地の良さに、つい長居をするのですが、あのひらひらとした衣装はベトナムの伝統的衣装アオザイにそっくり。しかも、ベトナム人女性はとても優しく、もてなし上手で働き者。しかも、美人が多い。その上、ベトナムはとても食の豊かな国でメコンデルタでは年に3回もお米がとれるし、マンゴーやパパイヤ、ココナツなどのフルーツなんかは勝手になるし、川も海もあり、魚介類はとても充実しています。まさに竜宮城。正直あまり働かなくてもとても良い生活が出来てしまう男性にとってはまさにハッピーランド。多くの戦火や政治的困難にみまわれなければ、本来は竜宮城のような国なのだとおもいます。いつかこの国に竜宮城だった頃の平和な日々が訪れることを切に願います。
さて、帰りの関空のカフェで石丸さんが
「来年はどちらへ行きましょうか、コヤマさん?」と尋ねると
しばらく間があって、
「来年は南米に行きたいな。」と笑顔で答えていました。確か去年もマダガスカルの帰り、この場所で今年の計画を立てたのを覚えています。
「南米か。いいですね。」と石丸さんと顔を見合わせました。
おしまい