18.04.01 2018年4月号 月刊『YO-RO-ZU よろず』 「おいしい」の周辺⑥
第六回

[ 得意技は「遊び心」 ]

今、目の前に新しいチョコレートの材料がある。おや? この香りはどこかで……そうだ! 子どもの頃に嗅いだことがある! 何だったかなあ?
 そんなふうに、一つの香りを通して「今」が「昔」に返っていくことが僕には多々ある。昔遊んだ野山を思い起こしながら、新作を練り上げていく。
 その過程で、「この香りは、これと合わせると相性がいい」と考えていたことが覆されたりもする。もう一度、自分の新しい感覚を獲得していく。それが「ディスカバリー」。新発見も、再発見も、同時に含まれる言葉だ。もしかしたら、新発見と再発見は紙一重なのかもしれない。
 二〇一二年、ふきのとうを使って「春の苦み」というテーマでチョコレートを作った。二〇一七年にもふきのとうを使ったが、このときは野性味のある青さを表現するために、まだ花芽が開く前のものを三田、篠山、京丹後の三カ所だけで十五キロ集めた。そして、いちごをマリアージュさせた。二〇一七年のほうが抑制のきいた苦みになった。この違いが五年間の僕の“変化”でもある。
 もし、フランス人がフランスのふきのとうを使ったとしても、ここ三田周辺のふきのとうと同じ味が表現できるわけではない。だから、この苦みが「エスコヤマ」のオリジナリティになる。
 ということは、再発見を経ることでオリジナリティに出逢っていくのだとも言える。オリジナリティに出逢うことを新発見と言うのかもしれない。大事なのは、自分の暮らしの足元に眠っているそのヒントを繙(ひもと)くことができるかどうか。
 変な言い方だが、「チョコレートを繙いていく」という遊びを僕はやっているのだと思う。その渦中で、こんなことも知らなかったという恥ずかしさに出逢う一方で、でも気づくことができたという自信も生まれる。恥ずかしさと自信は同居するものなのだろう。


気がついたら、僕のお菓子づくりや空間づくりの能力は、ほぼ子どもの頃に培ったものだった。自分の「面白い」を、どんなふうに、誰に伝えればうけるか、と考えることが子どもの頃からの癖になっている。癖を続けていると、それが「得意技」に熟成されていく。
 ある日、家の前の道にちょっと汚れた靴下が両足揃(そろ)って落ちていた。妻が見つけて教えてくれた。すぐにピンときた僕は、ある男に「落ちてたで」と書いて写メを送った。すると、相手は「探しとったんです!」と返してきた。
 前日に来ていた庭師のまっちゃんの忘れ物。どうしてそこに落ちていたのかまで僕には想像できていた。彼の仕事が終わった後に一緒に食事に行ったのだが、汚れたままでは僕にいろいろ言われると考えたまっちゃんは、僕の車に乗る前に着替えた。そして、「どうだ!」とばかりに乗ったのだろうけれど、脱いだ靴下にお見送りをさせてしまったのだ。
 この話が間違いなくうける場所がある! うちのスタッフたちだ。みんな、まっちゃんのことを知っているのだから。そこで、僕はスタッフたちとのミーティングのときに、まっちゃんの靴下の写真を見せて、あの日の経緯を話して聞かせた。もちろん、ミーティングの後に、まっちゃんがやって来ることも想定してのことだ。
 案の定、入ってきたまっちゃんを見て、全員が爆笑した。まっちゃん一人がキョトンとしていた。
 チョコレートを作るときも、これと同じ。まずは、自分自身が「面白い」と思ったことを切り取ることができるかどうか。「ふきのとうなんか、おもろいちゃうんか?」「菊って、どうやろ?」というアイデアの段階がそうだ。そして、それをたくさんの人に向けて表現できるか。「チョコレートで表現しようか? マカロンのほうがええやろか?」と考える。それは本当に面白いことか。「お客さんはどんなリアクションになるんやろ?」とまたまた考える。どういう人に伝えれば喜んでもらえるのか。「子どもたちが喜ぶやろか?」……そうやって僕はお菓子を作ってきた。
 だから、学校でも親御さんにも、「子どもたちが自分の面白いと思っていることを大事にさせてほしい」という話をしている。「なあ、見て見て!」「こんなの見つけたんやで!」。そういう「熱」こそが、その子の表現力になっていくと確信している。
 まっちゃんの靴下の話には、自分の一日をつぶさに観察してほしいというスタッフへの願いもあった。自分は毎日平凡な生活をしている、と考えている人は少なくない。でも、それは自分を「ディスカバリー」していないだけかもしれない。靴下ひとつで、こんなにも笑いが起こる場を自分で作れるのだということを知ってほしかった。何が面白いのか、何を表現できるか、どう伝えられるか、そこに目を向けていくと、日常の中にはたくさんの表現の宝物が転がっていることに気がつく。平凡そうに思える日常がワクワクする日々に変わっていくのは、そこからだ。


ある中学校で話をしたとき、一人の生徒に「今日は何かおもろいことなかったん?」と尋ねると「普通」と答えた。「じゃあ、昨日は?」と問いかけると、「何でもええの?」と食いついてきた。
「昨日な、先生。(タメ口なのに「先生」か!?)靴をかたっぽ脱いで、ずっと蹴りながら帰ったんや。そう決めたんや」
「分かる! 俺も、今日はぜったい曲がらんと歩く!って決めたことがあるもん。塀とかあっても、乗り越えたろって貫くもんな!」
「でも、ちょっと蹴り間違ごうて、靴がドブにはまってしもうたんや」
「そんで、どないしたん?」
「取らなしゃあないやんか。そんで、ドブから取り上げてん」
「あのな、そこでちょっとだけ話を盛ってもええねんで。例えば、『上げた靴の中にドジョウが入っとってん!』とかな」
 もちろん他の生徒たちは「ドジョウ」と聞いて笑っている。
 すると、生徒の中から、「そんな話でええの?」という声が出始めた。そんなことでいいのだと思っていない彼らに、「そんなことが大事なのだ」と言いたくて僕はこの学校までやって来ている。
 別の生徒が手を挙げて語り始めた。
「うちは、横並びで部屋が四つあるんです」
「へえー、変わってるなあ」
「そんで、私の部屋はこっちの端っこ。お父さんとお母さんの部屋は反対の端っこ。お兄ちゃんの部屋がその隣」
「なるほど、なるほど。そんで?」
「そんで、お父さんとお母さんが部屋で喧嘩を始めたんです。でも、隣の部屋のお兄ちゃんは彼女を連れてきてて、何となく二人の親密な感じも伝わってくるんです」
 と、そこまで言うと、漫画みたいな情景が浮かんで、他の生徒たちもクスクス笑い始めた。
 自分の毎日は普通だと思っていても、漫才のようにツッコミを入れる別の人がいるだけで、どんどん面白い展開に入っていく。そういう場や関わり方が大事なのだ。
 ミュージシャンも、編集者も、映像のディレクターも、どこかに遊び心を持っている人の仕事は面白いし、熱が伝わってくる。そういう人たちと一緒に、味覚と音をマリアージュさせてみる、デコレーションとアニバーサリーケーキの専門ショップ「ファンタジー・ディレクター」のコンセプトで映像をつくる、といったことを遊び心で展開している。それもこれも、「普通」と諦めないで、何か見方を変えたら面白いことになるはずだ、という目を持つだけで可能になる。
 だから、僕はスタッフに報告書を書くことを勧めている。書きたいこと満載の一日を過ごしてほしいという意味だ。僕自身、いろんなことを言いたくて仕方がないから新商品が次々に生まれてくる。その経験に基づいて、自分の引き出しの中にたくさんの遊び道具を持っているほうが、あらゆる表現方法が可能になると確信している。

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